| 1967 浜松市で父親がゴルフに行っている最中に生まれたらしい? 1975 小学2年 毎日学校ではドッチボール、帰ったら団地の裏の小さな球場で野球三昧。 「巨人の星」ばりに夜中に兄のノックを受ける。超スパルタ。これで運動神経が良くなったと言われるが・・・。 暴れん坊巨人ファンの兄貴に毎日泣かされる。 地元たまプラーザレディアンツ(マイナーリーグすでに硬球)に入団。 すぐにサードレギュラー、3割8分1厘で新人王に輝く。いまだにそのメダルが一番重い? 試合中、斜め後ろのファールフライを取りに行って、つまづいて転ぶ。超恥ずかしいのでしばらく痛そうなフリをしてから、立ち上がる。思いがけず、大きな拍手が起きる?その後、速いサード強襲ヒットをあごに当てて止めてゲッツー。盛大な拍手? 冬になると練習不足に。11打数2安打の超絶不調?打席に立つと後ろにあの兄が腕組して見ている。もうウソの打率を言えない状況?えーい、眼を瞑って打ったら、ナント久しぶりの二塁打?ラッキー?これで怒られずに済む。 1976 小学3年 4月4日入学式前日に引っ越し。次の日に皆に何となくついて行って学校には着くが、帰りが全くわからなくなった。1時間ぐらいして公園に止まっていた車のおじさんに住所を言って、送ってもらう。当時、誘拐も流行っていたので危なかった! 地元の野球チーム青葉台レッドソックス(マイナーリーグ)に入るが以前ほど盛り上がらず。引っ越した当時は、毎日以前いた小学2年のクラスの野球チームのポジションと打順を考えていた。 電車でたまプラーザ駅に当時できたばかりの学習塾日本能率に通う。初めてのテストでの難しさにビックリ!学校では勉強しなくてもほとんど5。音楽さえ5ならオール5だったのに。特に塾を休んだ理科の授業でやったらしい体の仕組み、左心房?右心房?は全く聞いたことがない。 慶応義塾大学に全国模試に行く。テストは全くできなかったが、ビッグマックを食べることが唯一の楽しみだった?塾でもお弁当が普通だが、ケンタッキーを買う時はテンションが上がった。復習などしたことがなく、毎週400点中300点を突破できず。後半、チラホラと突破したが。いつも万点近く同じ人が貼り出されるのを見て、スゴイな〜!と思っていた。 1980 武蔵工業大学付属中学校入学 初めは野球部に入って甲子園に行って巨人に入る夢があった。2駅離れている甲子園優勝の実績ある桐蔭高校の付属である中学を受験。一次、二次試験に落ちたため、断念。 たしか偏差値56、私は50ぐらい。滑り止めで受かった2つの中学の内、乗り換えが攻玉社3回、武蔵工業大学付属中学2回と少ないだけで決めた。 入学前、小学生最後の春休み、家族箱根旅行で「エースをねらえ」を読んで、尚且つ姉が軟式テニスをしていたのが頭の片隅にあった。野球部は1年生がもうすでに走っているなあと思っていた時、最初に腕を引っ張られて勧誘を受けたテニス部に何となく仮入部。そのまま、硬式テニス部でテニスを始める。当時、仮入部は100人を超えていた。 テニスの経験はないけど毎日ランニング30キロ、腕立て、腹筋、背筋を自分でやろうと決めた。これを結局15年続けることとなった。ストレッチも知らずにやったので最初から痛みが走った。特に腰は中1からずっと痛かった。整骨院など中1から行って、合計金額は相当3000万以上じゃないかな? まず、友達と渋谷ウインザーに行った。木のラケットが数ある中、フタバヤのファインショットを買う。TVでウインブルドンを流していて、皆見ていた。後で知ったが、とにかくテニスブームで人が溢れていた。学校から帰って近所で壁打ち。怒られては次の場所に移ることを繰り返す。そして、近所を1周? そこでガリッと地面にラケットを擦って欠けてしまった。自分のせいだが、何とかごねて頼み込んでナント交換してもらう。 公園で今でもあると思うがゴムひもがついたボールを打つ練習。それを思い切り打ったら切れて、草むらの中に取りに行くが見つからず。 中学テニス部は幽霊部員を含め、入部者100人超え。テニス大全盛だった。 当然、最初は打たせてくれず、ボールボーイ(当時はボールパーソンなる言葉はない)ばかり。 のちにダブルスパートナーになるナットウ(あだ名)は小学生の時からテニスをしているので最初から打たせてもらっていた。羨ましいなあ。体格もその頃は大きく見えて、ラケットも2本ぐらい持ってサマになっていた。迫力があって先輩も気兼ねしていた。 ナットウは珍しい名前でその最後の苗字の最後が薗なのだが、ドローには菌の字がよくあった。そのため、正式なあだ名はナットウキン。のちに私も森キン。変な意味ではなくて、この「キン」がつくとムサコーの中ではステータス。ノムキン、シムキン、マスキンなど数人しか、その称号を得られない? 先生も部には現れず、自分達でやるのは当たり前。一番上手い先輩の所にボールボーイで着く。理由はボールを拾う回数が少ないからというのと打ち方を見て覚えられるから。下手な先輩の所はボールを何回も拾うばかり。サッサと打たせてくれよ。 「1年来い〜!」なんて言われて「ハイ」。行くと先輩のラケットを渡され、「オッ、打たせてくれるのか?」と思わせておいて、「握力〜!はじめ〜!」とか言って両手に2本持って、手首を90度に曲げて、耐える!謎のトレーニング! 夏の山中湖のテニス合宿、夕食後、皆で素振り。2日目に初めてボールを打たせてもらう。あまりにも人がいたので1人1球。それでも嬉しかった。山中湖1周ランニングでは6年間トップ。お水が冷たくて旨い。 同級生が朝、その冷たい水で当時出たばかりのゲートレードを水筒に入れて振っている。少し飲ませてもらったが、甘くて衝撃的な味?「これがアメリカの味かあ〜」その頃からアメリカに憧れていたのだろうか? 秋の都中学新人戦。ルールを先輩から教えられて間違えないように必死で覚える。「2球の内、1球下からでもいいから入れろ。」と言われた。1R勝ち、2R第7シード砧中学2年の年上にセカンド下からサービス。それでも5−7惜敗。すでに女子中学生のファンがいたイケメン相手選手に「おまえしつこいなあ」と褒められて嬉しかった。 やはり上から打つセカンドサービスが必要と感じる。ナイターがないので、皆が帰った後、2個入りの空き缶に懐中電灯を照らして、まずアドコートのバックへ打つスピンサービスを覚える。当たるまで帰らないと決めた。雑誌(当時はスマッシュとマガジンの2誌しかない)しか情報がないので、それを地面に置いてこんな感じかなと練習。トスを左後ろに上げて右へ跳ねたらいいと思っていた。それをやり過ぎて腰が痛くなった。ストレッチも知らない。今ならストレッチ、腹筋背筋リストなどのトレーニング、トスは斜め前方で下半身を使う。私がコーチなら痛めることもなかったはず? 1981 中学2年 1年の後半から毎日朝練に行き、コートが空いていたら打っていい。朝、4時半に起きてまず、ランニング。始発の電車で二子多摩川駅に。成城学園前行きのバス乗り場にいつもきれいな年上の学生が。世界中を回ったが、あとにも先のもこの人よりきれいな人は見たことがない?いつの頃からか?会釈をしてくれるように。ドキドキしながらバスに乗って、朝練に。一生懸命に練習。 秋の東京都中学新人戦Sベスト8、D3位。初めて「スマッシュ」に載る。これは嬉しかった。今でもその雑誌を持っている。そこでダントツで優勝した立教中学1年に誘われて、そのお父さんにダブルスを教えてもらう。 前衛と後衛のポジション、雁行陣の左右のチェンジでロブ、またはカットなど。 よく考えるとこれがのちのち非常に役に立った。しかも、無料で教えてくれたのはありがたい。 彼の入っている東京テニススクール久我山に日曜日週1回ジュニアクラスに通うようになる。当時テニスブームで1面20人以上は当たり前。ここで師匠である日大出身の松本コーチに出会う。初めて行った初日に「お前、素振りをしてみろ」と言われて必死に素振り。「違う、違うなあ」とずっと言われ続けて、先ほどの中学1年に素振りさせて「なあ〜?」と言われるだけ。特になぜか?私にだけ超厳しい。ムカついてブンッて振ったら、「そうだよ。なあ〜?」って。わからん。毎回、行くたびに言葉で泣かされる。その帰り、ラーメンや焼き鳥をおごってもらって、説教が始まるが耐える。バイクで用賀駅まで送ってくれることも。また、雨が降るとコーチ達と一緒にトランプ。コーチ達はとても楽しそう。しかし、あまりに鬼コーチの厳しさに他のジュニア達は耐えられず、皆すぐに辞めて一時0人になる?それでも私は辞めない。やると決めたからにはやり切るのが、昔から私の信条だ。ここが他の人と違うところ? その鬼コーチは三島出身。勉強はやらず席の後ろでぐれていたらしい。ある先生が「おまえ、テニスをやらないか?」と言われ、「そんな女のやるスポーツなんか?やるわけないだろ。ふざけんな。」「ハハ〜ん、自信がないんだな。」なんて言われてカチンときたらしい。「やってやるよ。」と。 高校2年で始めて、授業中も右手にラケット握って、さらに包帯をグルグル巻きにして、毎日素振り。「え〜!嘘でしょう。」と言うとまた、やられるので「へ〜、すごいですね。」と感心して聞いておかないといけない。そして、わずか1年もしないのに静岡代表でインターハイ出場。ナントベスト8入り。大学も推薦で日大テニス部へ。全日本にも出場、大学4年では主将。日本ランキングも12位まで行ったという。神和住プロにファイナル4−4。鳥目で暗くて見えないと言ってもやらされて、最後4−6で負けたと言っていた。「嘘だろう。」と言えないぐらいの迫力がある。「俺はテニスやっていなかったら、人生どうなっていたか?わからない。あの先生は恩人だよ。」と。こわ〜!しかし、スゲ〜!と思っていた。その時はフォアスライスでグッと押し込む感じだったが、その包帯を巻いている時はガツンと打ち込んでいたという。 1982 中学3年 学校の成績はまずまず。学校の期末テストで出るのは1週間前に必死に暗記。クラスで1番にならないように配慮していた?しかし、5番以下はさすがにプライドが許さない。その間を狙っていた。しかし、急に全国模試試験と言われて出されると下の方に。応用は苦手だった。授業で出た問題ならわかるのだが・・・。 テニスはますます楽しいが、体中、痛い所だらけ。毎週金曜日は南新宿のこれも特徴あるべらんめえ口調おっさんの整骨院に行って、腰の治療。肘も足首も痛い。おっさんは北海道のヤンチャ坊主だったらしい。ある日、「腹減っているか?」なんて言うので「メチャクチャ腹減っています。吉野家の牛丼なら3杯はいけます。」なんて言ったら「嘘だろ〜」なんて言うので本当に行って食ってやりましたよ。さらに卵とみそ汁と漬物も3つずつ平らげたらビックリしていた?さらに新宿シェーキーズでピザを食べて、家に帰ってカレーライス2杯お代わりした? 東京都世田谷区大会。1回戦では左で打ったり。(これは鬼コーチが「練習では左でサービス打って、あれ〜おかしいなあ〜なんて首傾げたりして、試合になったら右でバーンだよ。」というのがカッコよく感じてしまった。非常に失礼な態度。今になって反省しています。当時の相手の方、すみませんでした。) 成城学園との決勝戦。私史上歴代1位のきれいな人(先の朝練の時、バス停にいた)がその女子部として相手チームの応援。試合どころではないが、NO1として変な緊張の中、勝って優勝! 東京都中学ランキングS11位、D3位(この表彰もとても嬉しかった。やはり誰かに認めてもらえるのが人間は嬉しい。) 東京都中学団体戦準優勝。確か皆で決勝戦、立教中学で写真をパチリ。 立教で団体戦。麻布中学、その当たった選手にのちに眼の手術をしてもらうことになる。単複共に一度も試合ではその相手には負けたことがなかった。不思議な縁である。 慶応義塾大学中学とやる時は燃えたなあ〜!左利きのライバルとやって1本1本声出していたら、シッて口に当てて言われてむかついた。何かっこつけているんだと思ってね。彼の方が正しかったかも。この時から団体戦が好きだった。各中学など友達に会えるのと自分の中学のために戦うとエネルギーが溢れてくる。 テニスは個人戦だが、団体戦を合わせれば、いいところ取りなのだ! 全国中学Dベスト16、団体戦ベスト8 全国中学は当時読売ランドにたくさん速いテニスコートがあった。そこで初めて同い年の松岡修造を見てものすごい衝撃を受ける。今の錦織を見たのと同じぐらいの衝撃。その当時のしかもその同級生がロシニョールの最新のラケットを使う。フォア、大きなバックスイングで思い切り引いて、肩をいからせて、打つ瞬間チョリ〜ンとカナきり音。ものすごく跳ねる。スピンサービスも大きく右へ跳ねて後ろのバックネットに刺さる。身長の低い同年代が取れるわけがない。「これがトップスピンというやつか?」ビックリしてマネしてみたが全然違う。 ムサコー大学OBが練習と応援に来てくれた。この全国中学の写真は引き伸ばして、森下ITAのテニスクラブハウスの中に飾ってあります。ものすごく集中していて、尚且つかわいい姿にキュンとなりますよ。 1983 武蔵工業大学付属高校入学 夏休みの1か月、アメリカへの憧れがあり、女子50位女子小野プロ(瀬田の高級フィットネスクラブで話す。そこは松田聖子など芸能人の御用達クラブ)の知り合いロスアンゼルス在住の日系2世のヒサシ(奥さんは100位内のツアープロ)のところに練習に行くと決める。当初、1人で行くはずが、ダブルスパートナーのナットウや高校の先輩とその兄、プロの弟ら6人が参加。当時のレートは1$360円から240円に下がったとは言え、今では考えられないほど物価が高い。現在24年6月、160円の超円安と言っているが・・・。 雑誌の写真で見たホップマンキャンプ(壁に無限大∞のマークが書いてあって、それをなぞってスイングしている姿。スピン打法を学ぶ)や漫画「テニスボーイ」をイメージしていた。しかし、実際は大学のコートを借りて、ヒサシやマーク(ヒョロリとした大学生)、もう一人のたぶんアルバイトのコーチが球出しばかり。一番端に並んで1,2,3と順番に3球打つ。的は工事中に使っているような大きなコーン。一番高い所はアウトだが、そんなことはおかまいなし。さすがアメリカ。アバウトだ。でも毎回こればかりでは飽きるなあ。これじゃあ、せっかくアメリカに来た意味がないよ。練習は9時から12時。15時から18時。 昼食はマックなど。ナットウが飲み物のサイズを聞かれ、「おっきいの」と言って大爆笑。 間の3時間は長いと思いきや、学校の宿題をやっている最中、ガンガン冷房が効いた所でグッスリ昼寝してしまう。そのため、夕方は体が動く。暑い日中は休むというのがアメリカ。今の時代の先取りか? 皆でアパートメントを借りる。トイレットペーパーでトイレが詰まってしまい、掃除する大学生の女の子を泣かしてしまった。悪かったなあ。毎日、マーク達が送迎してくれる。ラジオからアメリカの音楽だけずっと流れている。それだけでもアメリカだなあと感じた。 1つ年下のジョリーンに恋する。(のちにトップ100位でウインブルドン出場していた。その時、サングラスをしていて筋肉質に変わっていた)ヒサシの親戚らしい。練習試合は6−1で私が勝利。サウスアメリカの14歳以下8位だったらしい。握手の時、ドキドキ。片言でももっと話せたらいいのにとずっと思っていた。日本に戻って、2学期の初めに早速、手紙を書こうと思ったが、英語は苦手。職員室に行って、英語の先生に相談して一緒に書いてもらう。しかし、返事は来ず、ガックリ!頑張って一瞬勉強したのに・・・。 アメリカの大学生と練習試合。真ん中にスライスアプローチして来てネットにラッシュする初めての戦法に戸惑う。ファイナルセット6−7で負け。 ヒサシのお母さんが何か?食べたいものはある?と聞いてくれたので、「コーンポタージュ」と言った。しかし、出てきたものは甘い。これじゃない〜!と若さのあまり傷つける言葉をかけてしまった・・・。お母さんの申し訳なさそうな顔が忘れられない。 マネートーナメント(当時毎週のようにこういう大会が全米各地にいくつもあるのを聞いて衝撃!だから強いんだと!日本にはおそらくなかったと思う。プロとアマチュアの中間)に出るがレベルの高さに驚く。 そこで、股下ショットをする(初めて見た)アメリカ人を応援していたら、試合後、負けた相手の選手がコートを飛び出して来て、ものすごく怒って襲ってきた。俺らはダッシュで崖をよじ登って逃げる。怖かったあ〜! また、ある大会では俺だけ離れたコートに。相手選手の車に乗って行く。「これは勝ったら帰れないんじゃないか?」と思ったが、負けたので無事生還できた。 当時、アメリカで爆発的に売れていたプリンスのデカラケ(コンポジット1本35000円ぐらい。それでも日本より安い。)2本買って悠々帰国。サービスが速くなったと少し調子に乗っていた。 少し慣れてきた頃、ある日、ディズニーランドに行こうとヒサシが言ってきた。しかし、私は「遊びに来たんじゃない。時間がもったいない。練習したい。」と。ただ、皆は行く気満々。仕方なくついて行くことにした。 行くと夢中になった。特にスペースマウンテンは楽しくて何回も乗った。そして、10回を超えた頃か?急に真っ暗闇の中、止まった。故障?周りのお客さんたちは大声で騒ぎ始めた。どうやら順番にジェットコースターを動かしているらしい。とうとう自分たちの番が来た。うあーと皆で手を挙げながら明るい骨組の中、終点に。すると大勢の人が待っていて大きな歓声と共に拍手が起こる。日本にはない感覚、これがアメリカか?何でも楽しみに変える!人生もそう!この楽しむということをもっと意識して、この時自分のものにすればだいぶ変わったかな?この気楽さが私の真面目過ぎて突き詰めてしまうこの性格にもっとミックスさせれば良かったかな? 英語ができるようになるかと思ったが、いつも日本人で一緒にいるから、そうはならない。 2学期の初め、担任の超怖い先生(宿題を忘れると机に正座してゲンコツ1つ。これが痛い。今なら問題だがこの頃は別に大したことはない。普通のこと)が私に道徳の授業1時間半与えて、この1か月のアメリカテニス合宿の話をクラスに話すことになった。 これがオオウケ! すぐに、高校新人戦単複優勝するつもりが、同期が申し込み忘れて、出られず。 また、関東ジュニアでSD勝利して、全国ジュニアに出場資格(しかもシード)があったが、連絡せず、出なかったので大目玉を食らう。当時はこんなことも頭が回らなかった。 ヘッドカップ(中学高校大学参加可のビッグ大会)Dベスト16 新人戦に出られず、腐っていたら秋のヘッドカップ(中学高校大学参加)に学校を休んでダブルスだけ出ていいと言われて張り切る。関東学生のペアに勝ってベスト16。昭和の森TCのナイターの中、生き生きプレーして楽しかったのを覚えている。相手の大学生から更衣室で「おまえら強いなあ」と言われてさらに嬉しかった。やはり、年上やレベルの高い人と試合するのは楽しいと感じた。 1984 高校2年 東京都高校S8位(7位までインターハイ出場) ベスト4の4人はインターハイ出場決定。私を含むベスト8はベスト4に負けたベスト16と対戦。全てベスト8が勝利。ここでリーグ戦。3人出場、1人落選。1人オレンジボールベスト8で小学生の時は松岡修造に勝っていて私は4連敗で苦手の相手A、1人全国中学優勝で高校1年B、1人この全国中学優勝の2年先輩の高校3年で唯一私が2勝1敗で勝ち越している相手C。このCがひどかった。腰が痛いというのでAに全く動かず0−8、2つ下の後輩Bに途中まで0−7、最後に1つ取って1−8で負け。この試合がひどかった。CはBのサービスを全てアウト、Bはサービスを打ったら後ろを振り返って跳ね返ったボールを拾うだけ。7−0まで行くと今度は逆にBが全てアウト。同じことをやる。その指示をしたのはC。 私は必死にAに食らいつくが6−8で惜敗。全国中学優勝Bに8−5で見事勝利。Cに勝てば文句なくインターハイ出場。 そこでCは「よーし、さらしを巻け〜」と後輩に指示。最初から私に全勢力を向けてきたのだ。これにカチーンときた。絶対に負けられない戦いがここにある。最後まで諦めずに戦ったが、6−8で負けた。 しかし、ゲーム差では断然自分のほうが上(私は20−21。Cは9−22)。また、あのCの全くやる気のない試合を見ていた協会の人達が何も言わないのも本当におかしいが・・・。 しかし、ナント1勝2敗同士の場合は直接対決で決めるとか言い出す始末。こんなことってありますか?これに納得がいかない私は抗議に抗議を重ねたが、聞き入れられず。日大三校の野球部のバックネットの裏で泣き続けた。 帰りに応援に来てくれた仲間たちと町田駅で何を食べたかも覚えていないぐらいものすごく悔しかった。これは今でも思い出すと悔しくて泣けてくる。一生忘れられない試合の1つ! 関東高校S出場 1回戦松岡修造の1つ上兄である宏泰さんと対戦。4−6で惜敗。やはり松岡兄弟は強かった。試合前に名前負けしている雰囲気があった。茨城の星、沼尻さんが優勝。 全日本ジュニアDベスト8 新大阪駅に皆で泊まった。サザンの歌が街に流れていた。 柳川高校に行った松岡修造と現フェドカップ代表監督土橋登志久組に5−7,3−6の惜敗。 当時、この2人が日本のジュニアで飛びぬけて1位と2位。他の選手は勝てないどころか?ゲームさえ、取れない。それぐらいの差があった。 第1セット5−3リードで私のサービスゲーム。セットポイントでセカンドを思い切り打ったら、チャンスボールがナットウの上にフラフラと。しかし、ナットウがファーストサービスでネットにかかったボールをまごまご拾っている。スマッシュを空振りして、そこから大挽回された。試合後、「あの時、何やっていたんだよ〜」と私が言っていたら、2人が監督にものすごく怒られていた。もし、万が一勝っていたらどうなっていたのだろうか・・・。 1985 高校3年 東京ジュニアS優勝ペンカップS優勝 それまでD優勝は柏ジュニア3連覇、川崎ジュニアなどいくつもあったが、初めてS優勝。しかも、2週連続。東京ジュニアでは桜田倶楽部のトップジュニアを連続して破る快挙。桜田倶楽部の飯田藍先生に「あなた、すごいファイトね。」と褒められてとても嬉しかった。他のクラブのコーチに褒めてもらえると余計に嬉しい。ああ、見ていてくれたんだと!閉会式で賞状とトロフィーをもらうとすぐに日大二高の友達のバイクに乗って、ペンカップに駆け付けてギリギリ間に合ってこれも連続優勝。疲れていたが、注目を浴びて、ちょっとしたヒーローになった気分でとても気持ちいい〜!勝つ選手はこういう気持ちを何度も味わってきたんだろうな? 東京都高校S8位(インターハイ出場)、D優勝 この年は東京都から8人出場できたので良かった。初のインターハイ出場、Dは自信があったがSは本当に嬉しかった。前の年、東京都が全国上位を占めていたので増えたのだ。Dのインターハイ決めは学校のつくば万博見学と重なって、パートナーがそっちへ行きたいと言ったが、私はどうしてもこの日に決めたいと思っていた。悪かったかなあ。いや、高校最後の年だから絶対に決めたかった。 関東高校S出場 関東ジュニアSベスト4(関東ジュニアランキング4位)、D優勝 S第4シードという初めて上位シードで正直大丈夫かなと思ったが、準々決勝で慶応サウスポーの苦手相手に6−4,4−6,6−4と勝利。いつもは相手に声出してガッツポーズを見せてファイト出すプレー。しかし、この時は不思議と冷静だった。これがいつもできていればと思った。ファイトがあり過ぎても良くないが、なさ過ぎても良くない。その中間、尚且つプレーと心にエネルギーを持ち続ける状態をいつでも作れば・・・。 D優勝(関東ジュニアランキング1位) 富山インターハイS ベスト32(全国高校ランキング20位) Dベスト8(全国高校ランキング5位) S1回戦、その後、同じ専修大学に入ってくることになった選手に8−3。ロブを多く上げてきた。今やその息子は有名海外サッカー選手に? 2回戦も勝って、3回戦奥。団体決勝の清風NO1。片手バックスピン、やはりミスしない印象。6−8。もう少し落ち着いてラリーしていたら。清風ということで少しビビってしまった。負けはしたが、割とボールが浅いと感じた。自分のボールも浅いが。 初めて行った富山県、あまりに暑いので、水シャワーを浴びた。体がカチカチに固くなったのを覚えている。 D第4シードをもらっていたが、準々決勝で寺村和章(四日市工、インターハイ二連覇、インカレ準優勝)組にストレート負け。相手のペアはSベスト32だが、私個人は勝てる相手。 パートナーナットウのファーストサービスでさえ、全てフォアダウンザラインにリターンを打ち込まれる。ぶつけられると思って、怖くて腰が引ける。ラケットにまともに当たらない。馬鹿にされていると思い、腹が立って負けた後、ネームボードをバキッと割って捨てて帰る。先日、パートナーがそれを拾って持ち帰ったらしく、フェイスブックに載せていた。・・・。その後。大学ではその相手に3勝1敗の勝ち越しでリベンジを果たす。 インターハイの会場で旅館から出てきたら、そこに関口が。 全日本ジュニアSベスト32(全日本ジュニアランキング20位) Dベスト4(全日本ジュニアランキング4位) 準決勝で松岡修造・辻野隆三組に0−6,0−6の完敗。足元にチュルリとスピンでハーフボレーばかりさせられる。第1セット0−4で相手が適当で舐めているのがわかり、「そういう態度では世界では活躍できないぞ」と思いながら、私はプレーしていた。それでいてこのスコア・・・。 鳥取国体にも東京都少年代表で選ばれる。これも東京都予選で格上選手を何人も破って手に入れた。 国体はその県を勝たせるお祭りのようなもの。半分のブロックに強い県をドンドン入れていく。1Rその当時インターハイ優勝で一番強い柳川高校の福岡県と当たり、単複敗れる。(のちに専修大学に入って、1年生同士でダブルスを組んだI。今、57歳になって彼から連絡があって、また一緒に専修大学コーチに就任。)一緒に出た東京都代表の年下のT選手に「同じ年の○○君と出たら勝てたのに。」と言われてショックを受ける。普通先輩にそんなこと言わないだろう。その他の県の選手たちとは仲良くなったのが嬉しかった。埼玉県代表の選手と射的や屋台を回った。初めて自分の母親が見に来ると言う。当時は恥ずかしい思いだった、最近、大学のコーチになるが、リーグ戦や個人戦に家族が応援に来ているのを見てビックリ!時代は変わったと一番感じたところ。 専修大学、青山学院大学、法政大学、明治大学、日本大学、東海大学、中央大学などからテニス推薦を受ける。最初、法政大学に行きたくて、大学の練習に一度混ぜてもらった。しかし、もうすでにウインブルドンジュニアに出場した選手が決まっていたらしく、あまり構ってもらえなかった。最後に悩んだのが専修大学と青山学院大学。両方の大学にとても仲のいい先輩(O先輩とH先輩)が1人ずついたので毎日電話で相談。親も友達も含め全ての人々が青山学院大学に行けと言っていたが、最終的に決めたのは専修大学。理由は「おまえを落とした法政大学や日本一の早稲田大学に勝つには同じ一部リーグの専修大学しかない。仇を打つぞ!」というO先輩の言葉だった。 また、専修大学ならナットウも一緒に取ってもらえるとのこと。他の大学なら一緒に行けない。 しかし、大学入学目前の2月、早稲田実業高校のライバルMと頑張って、腰がバリバリに痛い中、練習。普段学校では自分より同じか?上手い人と練習することがなかったのでとても嬉しいし楽しい。お互いに悪態をつく仲!練習ではお互いに厳しいボールを打ち合う。楽しい。駅でギックリ腰になって歩けなくなる。2人のサラリーマンの人におぶってもらって家に連れていってもらった。そのまま1カ月は寝たきりに・・・。 それでも卒業式の後、感謝を込めて、1人でローラー、コート3面を引いた。 1986 専修大学にテニス推薦で入学 入るのが楽しみで仕方がなかった。今までできなかった強い人達と練習ができると嬉しくなった。だから高校の卒業式は全然悲しくなかった。むしろワクワク。 勉強して入るのはとても大変。テニスで取ってもらえて私はラッキー!頑張るしかない!どの時代の学生も同じような気持ちなら自分なりにやるはず! 大学1年から関東一部でSD共にレギュラーで活躍。当時一部リーグは4月朝日生命で一斉に開催。だから試合途中で他の大学の経過を見て、スコアは?どう調子は?などと話すのが、すごく楽しかった。早稲田大学がダントツで強く、明治大学が2位。日大、法政大学、慶応義塾大学とわれら専修大学が一部リーグ。高校3年の時に大学リーグ戦を見たが、ミスしない足を滑らすボレー、スマッシュの確率の高さにビックリ!ここが大きく高校生と違うと思った。 2年上のA先輩と組んでもらった。ボレーがメチャクチャ上手い。私が見た日本人の中で一番上手い3人に入る。他の2人は鈴木貴男選手、M選手。 法政大学戦、ダブルスを一緒に組んでもらって、少し甘いロブが上がってしまった。下がってください!大きな声で言うが、一瞬後ろを見て、なぜか?ヒョイヒョイと前に詰めていく。あ〜とぶつけられる思ったら、パパンと至近距離でカウンターパンチボレーを決めてしまった。唖然として何が起こったか?わからない。ごめんごめん、前に出ちゃったって? S3勝2敗。D4勝1敗。チーム4位。1年、レギュラーで全て出た。非常に燃えて団体戦は楽しい。 特に法政大学と試合した時、絶対に負けられないと思った。見事、単複勝利。 高2インターハイ東京都予選で負けた例の相手だった。ダブルで雪辱した。この日、あるアイドルの死が話題に。シングルス試合後、ベンチコーチの先輩が教えてくれた。 慶応大には同い年の左利きと対戦。中学の時からライバル。こいつにだけは負けたくない。 明治大学では2年生前年新進優勝者と対戦。こちらが声出しても脅かしても笑っているだけ。こういう相手が一番嫌だ。 腰痛のため、ボールパーソンやコート整備を多めに他の1年生にやってもらって、だいぶ優遇してもらう。 現在、リーグ戦は9月だが、当時は4月。学校が始まってガイダンスも受けられないのが普通だった。 リーグ戦後、学校に行ってすぐにクラス全員と友達になる。試験の時、レポートがどれだけ集められるか?が勝負だからだ。こういうコミュニケーションは得意。テニス部の他の部員はかなり苦労したと聞いた。テニス以外もいろいろ試そうと思っていたから。 大学3年時には、クラスの仲間とグアム卒業旅行、家で鍋パーティーもしたほど。 テニスと学業の両立はメチャクチャ楽しい! 全国学生インカレS出場(1年生で関東から出たのはわずか3人)。ダブルスは関東学生本戦2回戦負け。 インカレ、神戸総合運動公園であまりの暑さに参りました。関東と関西のうどんつゆの差があるのは知っていたが、これほど暑さの差があるとは? 1R関西のBスライスしか打てない4年生にファイナルセット粘り負け。スライスアプローチ、真ん中に打ってきて、パスが抜けない。これでオムニコートが嫌いになった。あまりの悔しさに一人新幹線で帰る。一応先輩達には断っておいたが・・・。常識を外していたかなあ。もちろん怒られて次の日、坊主に。2回勝てば第1シードで楽しみだったのだが・・・。今考えると、次の対戦ばかり考えて、1回戦の相手に敬意が少し足りなかったのかもしれない。 秋に関東新進戦(インカレベスト8以下が出場きる大会)S準優勝(=全国10位ということ) 立川ルーデンスのハードコートで飛びつきボレーを決めまくった。血だらけになると異常に燃えてくる。サッカーのゴールキーパーの方が合っているんじゃない?といつも思っていた。SF青山学院大学2年インカレ16のIさんに飛びつきドロップボレーを決めたら、ビックリしていた。 決勝は森田あゆみのコーチである丸山淳一プロに1−6,3−6。片手バックが相変わらずメチャクチャスゴイ。しかし、私は秋になるといいプレーが出るなあ〜!と実感した。 しかし、この新進は他の春や夏の関東学生より下と見られていて悲しかった。 秋の東海大学の学園祭に呼ばれて、対抗戦。初のNO1で張り切ったが、腰が痛くてカラカラのクレーコートで滑って、負けるはずのないインカレ相手に4−6,4−6ストレート負け。また、腰が痛く、動けなくなった。25年3部リーグ戦に行ったが、ハードコートになっていた。ただ、雰囲気は何となく覚えていた。 そして、持病の腰痛を治すため、全国を回る。H先輩から聞いた超有名なカリスマ先生のいる大分に。お金を節約するため、鈍行列車で横浜から大阪、そこから船で四国、そして大分港。しかし、ナント残念ながら、別府温泉で温泉に入ってはいけない気功治療。結局、治らなかったが、夜0時に寝て3時に起きる先生をトイレに行く時に見た。この人はナポレオンなのか?超人と思った。島根で霊媒治療。結局、川崎の日本鋼管病院のK先生(オリンピックスキーのドクター)に第5腰椎分離症で手術しても治らないと少しべらんめー口調で言われた。ストレッチ、トレーニングで痛みを和らげるのみ。この痛みと付き合っていくしかないと言われて覚悟を決める。そこから精神的に楽になる。一種の開き直りか?リーグ戦前に下のクレーコートで久しぶりに練習。フォアがナントネットに転がった。打ち方を忘れたよ。この衝撃はエクアドルサテライトに行った時もそうなった。 1987 大学2年 関東リーグ戦1部SDレギュラー チーム4位。 春の関東学生予選5試合で慶応義塾大学クレーコート、連続ノーミスリターンを達成。相手がサービスを打つ前にどこにリターン足元強く打つかだけを考えていた。もう相手が打つ前からミスするとは全く考えなかった。大学時代の一番強い時か?一種のゾーンに入った状態か? その直後、JOP80位のHさんと練習。「試合お願いします。」と言うと、「森下は何でも取るからなあ」と言われたのが頭から離れない。張り切って取れないボールを追いかけて、グキッと右足首捻挫。泣くぐらい痛かったが、このぐらいで痛がってはカッコ悪いと思い歩いてアパートに帰る。それが悪かったか?次の日、メチャクチャ腫れた。早く治して試合に出たかったので、近くの病院で包帯を巻いてもらった。しかし、それが逆に悪かった。異常にしびれて痛い。1週間経って、あの例の川崎の日本鋼管病院整形外科のK先生(スキーのオリンピック代表ドクター)に手術を受ける。最初からここで手術すべきだった。悲しかった。手術中に「おい、靭帯が切れてなくなっているぞ。どうする?」と言われて、「どうするったって、何とかしてください。」と。「仕方ねーな。その辺から引っ張ってくるか。」だって。適当〜!だが腕はいい。入院して6人部屋、9時消灯、寂しくチューブの歌を聴きながら泣いていた。楽しみは可愛い看護士さん2人にちょっかいを出すこと。今は無理だが、当時はできた・・・。 リハビリをしながらヒゲを伸ばしてみた。若い時はこんな時もあるのでしょう。飯も動かないのに1日5合を食べるのを何故か日課にしていた。体重はもちろん増えるが、少し走ると戻る。 夏になるとあまりに暑くて先輩が車で茅ケ崎まで行こうと言ってくれた。 1988 大学3年 関東リーグ戦1部SDレギュラー チーム5位。 自他推薦で主将になる。専修大学は他の一部の大学と比べてだいぶ実力が劣る。そのため、下の選手からレベルアップが必要と感じてそこに集中。上の選手が下の選手と練習や試合を多くやった。ランキング表を作った。勝ったらその人の上に行く。その代わり、リーグ戦直前の3月ではメンバー優先にしてカバーしてもらった。いつも全体を考えるやり方は中学の時から変わらず、それが今のアカデミーでも活かせている。 真夏のインターハイで推薦選手のことを取ることで頭がいっぱいになって寝不足に。自分自身のインカレD予選(香枦園)に30秒遅れて、棄権負け。知らない土地なのに、今でいうスマホ検索もなく、タクシーなんて考えもしなかった。自ら坊主になる。Sベスト32(森井大治に負け、ネット際、飛びついて血だらけに。あとで聞くと大治は大丈夫か?と言ったそうだが、俺はうるさい、試合中だ。と言ったらしい。失礼なやつだなあ。) 関東新進戦S優勝。準決勝早稲田の永遠のライバルMにストレート勝ち。サーブ&ボレーしまくった。決勝1部や2部でないベッカーそっくりA6−3,6−1勝利。 得意の大会だ。2年生ではケガで出られず。ネットに出まくって飛びつきまくった。トップシードを全て蹴散らした。神奈川県大会ベスト4. 感動の私のインタビューで皆、泣いた!? インカレベスト8以上は出られないので、当時全国大学の9位というところだろう。 東北オープンで初めて予選を勝ち上がり、S本戦出場。初JOPポイント(日本ランキング)取得と思っていたら、「ダブルエントリーで取り消し」と他の何人かの大学生と共に言われた。インカレインドアに申し込むが、関東新進戦優勝なのに予選すら入れてもらえなかった。ムカついてこの東北オープンに出て本戦上がって「ざまーみろ」と思っていた矢先、これだ。当時、出られなくても申し込んだだけでダブルエントリーになったのである。腹が立って、仙台からインドアをやっている大宮の会場に乗り込む。当時の学連トップに泣きながら「どうしてだよ?新進優勝したのに予選すら出してくれないから東北行ったのに。初めてJOPだぜ。どれだけ大変か?おまえら知らないだろ。」なんて言ったが、突っぱねられた。腹立ったなあ。しかし、今から思うと相手の学連の方も何だ?こいつ?と思っていたに違いない。 ヘッドカップSD優勝 当時、ヘッドのラケットを使用していて、優勝後、そのヘッドの責任者が来て「おまえ、何でヨネックスを使っているんだ。ヘッドのモニター選手だろう。」と怒鳴られた。しかし、私は「ストリングを固く張って、下に当たっていたら変形したんです。何度も変えてくださいと頼みましたが、ダメというのでこれを使っていました。」と言うと愕然として「悪かった。明日、新しいのに全て変えてあげるよ。」と言ってくれて嬉しかった。担当者は相当怒られたはず。 1989 大学4年 関東リーグ戦1部SDレギュラー チーム6位。 2部優勝の青山学院大学と入れ替え戦を戦う。 D個人は勝ったが、チームは2勝1敗でリード。S下3本連敗で合計2勝4敗とリードされて絶体絶命。青山学院大学のOBが「お前ら、1部に上がったら、ハワイ旅行をプレゼントだあ〜!」と大盛り上がり。こちらはOBもいなくてシーン・・・。 S3、S2が勝利して4勝4敗のタイに持ち込む。 S1の自分にかかる。相手はインカレベスト16磯金徹。試合前から4勝4敗に持ち込んでくれれば必ず勝つと宣言していた。 6−3、2−0から8ゲーム連取されて、2−6、ファイナル0−2。何故かポイントが取れない。 味方と相手の応援が白熱して、一触即発に。 ガチガチの中、ランニングバックトップスピンロブを決めた。ここから命をかけた戦い、6ゲーム連取して6−2大逆転勝ち!見事1部残留を決定した。 最後は放心状態で座っていると相手の青山学院大学主将が隣に来てたばこをふかしながら「森キン、すごいなあ。青学に来ていたら、うちが1部だったのに。」と言われる。 インカレSベスト64 D(平井)ベスト8 今まで自分はアドコートを守っていた。リードされても挽回する、プレッシャーに強いと思って。この年から1つ年下のパートナー平井の方が、Bは上手いと認めて、Dサイドに変わる。するとプレッシャーが解き放たれて、思い切り打ててDの成績が急にグーンと上がった。好きなリターンの振り遅れでダウンザラインへ抜けたのをいかにも狙ったように振舞うのが得意だった!? インカレインドアSベスト16 D(平井)ベスト4 準決勝、優勝した佐藤・万木にファイナルセット負けで惜しかった。 日本学生ランキングD(平井)4位 北信越選手権D(草野)優勝して全日本選手権出場を決める。初の全日本出場に喜んだ。 全日本選手権D出場。1回戦岡田・清宮プロにストレート負け。 JOPランキングS70位D80位 秋に大分、熊本などのATPサテライトツアーに出場。当時、プロたちになんだこいつという感じで練習してもらえなかった。一人で素振りやランニングしていた。 最後の冬休みにただの卒業旅行では面白くないので、1人でスペイン(ムルシア、バルセロナ、セビーリャなど)へATPサテライトツアーに2か月参戦。 第1週目には180人以上集まる。予選128ドローなので当然落ちる選手もいる。ここでは日本ランキング70位なんて全く関係ないのだ。世界ランキングだけがものを言う。しかも、数ポイントでは予選だ。運よく、私は6週予選のくじ引きに当たって試合はやれた。ラッキーだ! ムルシア大会で当時14歳オレンジボールベスト8(のちにATP100位)に7−5,7−6で勝利。 当時16歳スペインナショナルチームのコレーチャ(のちにナントフレンチオープン準優勝、ATP3位)7−5,6−7,7−5の3時間半の熱戦で勝利。他の選手と違って、ウィナーには「ナイスショット」と褒めてきた。私にはそんな余裕がないのに・・・。16歳にして素晴らしい選手。トップに行ったのも納得。ジャッチもとてもキレイ。 しかし、壁は厚く、サテライトの本戦すら入れず。最後はスペイン20位に完敗。 ここで帰りの飛行機の中で「どうしてもこの世界に挑戦したい」泣きじゃくりながら思う。 |